日本は暑いそうですが、こちらテキサスでは何の火元がない児童公園で
太陽熱から火事が起こりました。暑いを通り越して怖いほど熱いです。
でもって今日は、先ほどから立て続けに雷が落ちています。
落雷がある度に、ペースメーカーを入れている知り合いのことを思い出します。
彼は私に胸に耳を当てさせてくれ、ペースメーカーの音を聞かせてくれました。
胸からはカチッ、カチッ、カチッっと規則正しい、金属音が聞こえてきました。
でも落雷があると、その機械が狂ってしまわないか心配です。
だって、車のアラームが勝手に鳴り出したりするくらい
すっごく大きな雷が立て続けに落ちてるんですから。
ドドーンと雷が落ちると、近所の車のアラームが反応して
ウイーンウイーンって警報の音が出ます。
これったら「雷の音=危険な雰囲気」が更に
「車のアラーム=危険な雰囲気」で増しています。
そして、私の潜在意識に危険信号が否応なく刻み込まれてしまいます。
ので、ついロウソクや懐中電灯をたくさん買い込みたくなる衝動に駆られます。
しかし、死ぬ人はどこにいても死ぬし、死なない人は
どんな危険の中にいても、きっと死なないでしょう。
最近、興味深いニュースがありました。
ミネソタ州ミネアポリスの橋が崩壊したニュースをご存知ですか?
この事故の後、ニューヨークタイムズに載っていたお話です。
裕福でない地域の子供たちを乗せたサマースクールのバスが
プールの帰りにこの事故に巻き込まれました。
しかしバスにいた50人の子供たちは全員命が助かったそうです。
そのストーリーには一人のヒーローがいました。
そのヒーローは貧困で車の修理工になるための教育費が払えないため
学校には行けず、夏にアルバイトで子供たちの引率をしていました。
ジェレミーという名の20歳の男性です。
坊主頭で刺青が入った、イカツイにいちゃんです。
新聞の写真だけ見たら、ジェレミーは犯罪者にしか見えません。
ジェレミーは事故が起こる前、バスの中で眠りこけてたそうです。
でも、バスに異変が起きたと感じたと同時に
立ち上がってドアを蹴って、子供たちを次々と抱き上げ
バスの外に次々と救い出しました。
彼はこの時のことを言葉少なげに語っています。
「ラッキーだった」
(えっ?それだけですか?って私がレポーターだったらつっこんでたでしょう)
でも、その後の質問に彼はこのように答えています。
私はこの部分を読んで、涙が出ました。
「全く考えてなんていなくて、体が自動的に動いたんだ。
僕はただ、勝手に動く体について行っただけなんだ。」
神の存在を感じぜずにはいられない言葉・・ じゃない?
反面、同じ状況にいた、同じ年代のある青年は
この事故で何もできず、頭を打って、心も打ちひしがれています。
彼の言葉は、「僕はなんてアン・ラッキーだ」 でした。
全く同じ状況にいて、ラッキーな人とアンラッキーな人の二極に
人はどのように分けられるのか、私はこの事故で考えさせられました。
ジェレミーはまるで結界があったかのように、何かに守られていました。
そして、彼の体は使われ、多くの子供たちを救うことができました。
反面もう一人の青年は頭を打って何もせず、自分のいくじなさを責めています。
このことで思ったのは、人が災害などで救われる or 救われないという差は
私たちがどんなに気をつけていようがいまいが、私たちの普段の行いを見られていて
既に決められているのかもしれない・・・
なんて、飛躍しすぎですかね?
『バベル』という映画を観ました?
「人間は神に近づくためにバベルの塔を建設しようとした。
しかし、神は驕った人間を罰するために、バベルの塔を建てられないよう
人間から共通の言語を取り上げた・・・」 という、旧約聖書のストーリーですが
私はこの映画では、“バベルの塔=驕った人間のエゴの象徴”
そして、“共通の言語を取り上げられた=人間に課せられた罰”というメッセージを
共通の言葉がなくコミュニケーションが取れない、という表面下に感じました。
映画では、3つのシーンが同時に進行されます。
これらのシーンはごく普通の人たちの日常生活です。
しかし、それまで平穏であった普通の生活が、ほんのちょっとしたきっかけで
悲劇へと一転していきます。
悲劇や災難は、全て自分が引き寄せています。
ポジティブなエネルギーはポジティブな物事を引き寄せる
というコンセプトは分かり易いし、信じたいことですよね。
でも、だとしたらその逆もあるということですよね。
映画の中での悲劇の原因は、とても分かり易く描かれています。
アルコール、怒り、ドラッグ、銃、近親相姦、快楽としての性
他の文化を受け入れない頑な態度、浮気(ハッキリ描かれてませんが
きっとブラッド・ピット役の夫は浮気をしたのだと思います)などなど・・
しかし、映画で描かれているような、いかにも分かり易い
間違った選択以外にも、私たちは常に何らかの選択をして生きています。
そして、その私たちの選択が、今の自分、そして今の自分に
起こってくる全てのことを創っているのだと思います。
この映画を観て思い出したのは、数年前に起こったヒューストンでの洪水でした。
私は買い物をしている先から、子供を迎えにいくために学校に向かっていました。
お店を出る頃に急に降り出した大雨は、15分もかからない所にある
息子の学校に行くまでに洪水となり、道がふさがれてしまいました。
私は(まずい)と思ったと同時に、周りを見渡し少し高台になっている
コンビニの駐車場に車を止めて待ちました。
その場所には、まだ空いているスペースはありましたが
不思議と多くの車はそこを素通りし、洪水となった道路を無理やり走っていきました。
そして、それらの車は洪水の中で行き止まりになり
前にも後ろにも行けない状態にはまり込んでしまいました。
その時、誰も何もできない状態が一目瞭然でありながら
人々は車の窓から、大声でどなったりして怒りを露にしていました。
私はその一部始終を高台から眺めていました。
私がそこに見たものは、人間の力で何とでもなると
神(自然)をも恐れない人々の驕った態度でした。
しかし彼らからすれば、突然巻き込まれた災害だったかもしれません。
このような驕りやエゴがネガティブのエネルギーを引き寄せるのではないでしょうか?
それが神から与えられたカルマだとしたら
私たちは、間違いを犯し罰を与えてもらうことで
そこから自分の愚かさを学び向上しなくてはいけません。
間違った選択をしない人なんていないのですから
そこから何かを学べばいいのだと思います。
前回書いたゴアさんが訴えているような、温暖化から地球を救う活動は
人間が自分たちがやってきた愚かさに気づき
一人一人が心の成長と共に、地球を考えるきっかけとなり
そして、そのような気づきを得た人たちが、世界で繋がるための素晴らしい活動です。
私がこのような活動で注目したいのは、地球温暖化という人間が作ったカルマによって
一人一人が自分の心を見るきっかけとなり、人々の気づきが促進されることです。
なので、災害から身を守ることにだけにフォーカスするのではなく
このようなことから、人間が精神的に成長することが大切なのだと思います。
そしてきっと、ゴアさんだってそんなこと知っているに決まっています。
だけど、そんな抽象的なことを言っていては、人は気づけないし動きません。
なので、「温暖化から地球を救う」という、一発で分かるメッセージを持って
人々に訴えているのだと思います。
数年後、自然災害がもっと悪化した時に、多くの人が繋がっていられるように。
そしてその時には、それまで様々な分野で別々に活動していた人たちの
力が結集できる状態になっているといいですね。
と言っても、私などがこのようなことを語るより
尊敬する立山裕二さんの書いた
地球を変えていくためには、一人一人が自分を変えて
成長していくことが大切であると、よく理解できると思います。
私は環境問題のことは何も分かりませんが
でも、人々の成長をお手伝いするという活動を
違った角度からしていきたいと思っています。
「お母さんが家庭で英語を教えられるお手伝いをする」という
子供への英語教育は、一発で分かるメッセージです。
「温暖化から地球を救おう」みたいに、具体的なので分かり易いです。
で、これで多くの人を引きずりこみたいと思っています。
(言い方が悪いね・・)
『学力は全米トップ0.1%』というタイトルで人を引っ掛けた様に、です。
(これも言い方が悪い・・)
でもオブラートに包んだようにモゴモゴとウソはつきません。
だって政治家じゃないので、分かってくれる人だけ分かってくれればいいんだもん。
と言っても、もちろん英語教育のことは真剣に考えているんですよ。
でもさ、子供を教育すること、そして子供を育てることって
最終的に行き着くところは、一人一人のスピリチュアルな成長だと思いません?
環境問題と子育てとは、トピックは全く違うけど
最終的に目指すとことは同じなんじゃないかな〜って思うのは
きっと私だけじゃないですよね?
マミ〜