プラトーンのリーダーによる、ベトナム戦争の回顧録です。古びた本で、本の真ん中くらいに詩織がはさんであります。
「この本にそのティーンエージャーの兵士のことが書いてあるから読んでごらん」
詩織の部分は、1969年7月3日に起こったベトナムでの戦闘の詳細でした。その本によると、夫の二度目の父ジェームス・ルイス・キャプテンが率いる、デルタと呼ばれるプラトーン(小隊)は、その戦闘で危機に陥っている場面でした。
ジェームスの横で、RTO(ラジオ・テレフォン・オペレーター)と呼ばれるティーンエージャーがこの本を書いた作者に対し、落ち着いて戦闘の情報を伝えています。しかし戦闘が悪化し、ジェームス率いるデルタ・チームは危ない状況に立たされます。
本ではしばらく戦闘の描写が続き、その後ジェームスが目に涙をためているシーンがあります。そこには、ジェームスの横にこれまでいたRTOがいないとあります。
なぜなら、ジェームスを助けるために自らが犠牲となり投げられた手榴弾に体を投げ出して、RTOは死んでしまったからです。
その時の状況は、、、ジェームスが手榴弾の準備をしている間に、敵から手榴弾が飛んできました。一つ目はRTOが知らせたことで、近くにいた兵士がそれを投げ返すことができました。
しかし、二つ目がその後すぐに投げられ、その時にはそれを拾う時間的な余裕はなくこのままでは、ジェームスがその手榴弾で殺されてしまうと判断したRTOが、自ら手榴弾に走って行き、爆弾のインパクトを自分の体で吸収したそうです。
そうなんです。ティーンエージャーのRTOは、ジェームスとジェームスが率いるプラトーンの命の恩人だったのです。
私は今、このティーンエージャーの名前を知っています。彼は死後、軍隊から勲章を貰っていたのでインターネットでも名前から情報を検索することができました。しかも、彼のお墓の写真まで見ることができました。
でも、すごく複雑な気持ちです。始めに書きましたが、この気持ちは自分の中で上手く消化しきれていずどう表現していいのか分かりません。
なおこさんのお話から、パッチーの記憶、そしてロバートがハッキリ覚えていた本。それらの点と点がつながって、そして今、私の息子がそのRTOであったとは・・
しかも、息子の前世のティーンエージャーがどのように亡くなったか、その時の状況が、一部始終書いてある本を読んでしまったのです。
実は私は、そのティーンエージャーの名前もブログに書き、彼のお墓の写真が掲載されているサイトもリンクしようかと思っていました。
ところが、そんなことを考えながらシャワーをしていた時、いつもは持ち上げない陶器の石鹸置きを なぜかその時たまたま手にしていて、それをツルっと手が滑ってバスタブに落とし、ガッチャーンと割ってしまったのです。
手が滑った時、スローモーションのように時が止まった瞬間を感じ、その瞬間に、(お墓の写真や名前は公表すべきではない)という、音にない声がどこからともなく聞こえてきました。だから、そこまで立ち入った情報まで公表することはやめました。
前世を知ることで、今生でなにをすべきか知ることは正しい時期がきた時には、知るべき筋書きになっている人もいると思います。
私自身は、前世を占ってもらったわけではありませんが、おぼろげに感じている自分の前世があるので、今やっていること、またはやろうとしていることに迷いなく進んでいる自分がいます。
ちなみに私は昔、ヒマラヤで修行をしていたのではないかと思うのです。でも、山に篭って修行をしていても人の役に立つわけではないので、今生では、前世で修行して学んだことを 社会の中でアウトプットしていく時。
それがするべきことであり、私の修行とは決して山に篭って瞑想することではなく、社会の中で、すでに自分の中で知っていることを表現していく事だと思っています。
今これを書いているのも、またこれまでに書いていることも、いつも、私ではない何かに動かされている感じがする時があります。時には手が勝手に動いて書いていると思えることもあります。そんな時には、たいてい涙を流しながら書いているのですが、でも別に悲しくでも感動しているでもない、なんて言ったらいいか・・
大きな存在と一体となって、愛そのものに包まれている喜びとでも言いましょうか。。。
私はスピリチュアル系の本とか、ほとんど読んだことはありません。でも解らないことがあれば、自分の内に聞いてみるという習慣になっています。
とは言え、よく一人で修行をしたいという衝動に駆られるのですね。ついつい前に進むよりも、昔に戻る方に引っ張られるという感じでしょうか。。。
ある日、修行をすべきかどうか迷っていた時期、古い教会に迷いこんだ夢を見ました。もし絵を上手に描ければ、この教会の様子を色やテキスチャーまで鮮明に絵に描けるくらい、今でもその教会の様子をビジュアルでハッキリと記憶しています。それだけでなく、壁を触った時の感触まで覚えています。
そこには微かに光が差し込む、白い石でできた壁のある階段がありました。上に昇っていこうとしている私は、廊下に立っていた男性にこちらの方向でいいか、それとも別な方向に行ったらいいのか、と尋ねるのですが、その男性は「そっちじゃなくて、こっちだよ」と別な方向を私に示してくれました。
私は「どうもありがとうございます」と言って、階段を上に行くのをやめて他の人たちがいる方向に歩き始めました。
夢が覚めて思ったことは、階段を上に行くことは私の中ではきっと、瞑想などの修行に向かう方向だったのです。して、人が大勢いる方向とは社会であったように思いました。
しかも驚くべきことに、、、正しい方向を示してくれた男性が、現実的に私のもとに現れました。彼は今でも必要な時にだけ、そっと正しい方向を知らせてくれる、とっても不思議な存在の方です。
息子の話に戻りますが、なおこさんとスカイプでお話しした時に実は彼女からこんな質問をされました。その時はあまり気に留めなかったのですが、後から考えると、これも今回の話で一致する点の一つでありました。
「ドゥーゲンは小さい時に戦争の物だとかにすごく興味を示さなかった?」
はいコレ
男の子はみんなそうだと思っていましたが、でもそんなことないですよね。息子は小さい頃、この手の物にとっても興味があって私たちは過去、軍隊用品を売っているお店に何軒も行かされたことがあります。
先日、なおこさんから、「ドゥーゲンくんは今生で何をすべきか知っているけど言わないだけ」と言われました。
この間、息子からアマゾンでオーダーしてと頼まれた本がありました。このように息子から本をオーダーしてくれと頼まれたのはこれが初めてです。なぜなら、うちの屋根裏部屋にはたくさん本があり、しかも、夫の趣味(というか人生そのもの・・)は本を読むことなので息子が読む本は、彼が能動的に探さなくてもいつも周りに溢れているのです。
しかし、息子は敢えてこの本が欲しいと言いました。「孫子の兵法」です。それもこれも怖いくらい一致しています。
息子には、なおこさんから昔中国の高僧であり、今生のすぐ前の前世では、ジェームスとベトナムで一緒だった若い兵士であったと言われた話は直接してません。
でも背筋がぞっとしたのは、私と夫がRTOの話をしている時、彼は聞いていないような顔をしていたのですが
「手榴弾に自らジャンプして自分を犠牲にするのって一体どんな感覚だったのだろう・・
それって、もしかしたら手榴弾を見て咄嗟に反射的に反応して体を投げ出したのかも」
と私が夫に話した時、すっと顔を上げて
「人間が手榴弾を見て反射的に取る行為とは、普通は逆のことだよ」と言うではありませんか。つまり普通人間が取る反射的な行為とは、手榴弾が目の前に来たら逃げるということです。
彼はその一言だけを間髪をいれずに、しかもまるでそれを体験したことがあるかのように確信を持って言い切っていました。小さい頃に、「ボクじゃない誰かがボクの口を通して話をしている時がある」と言った息子ですが、この時の息子の目も別人のようでした。
自分の子供の今生での使命を達成させる上で、親の役割とは何なのでしょうか?私たちは、子供の人生をガイドしてあげることができるのでしょうか?それとも運命は変えられないのでしょうか?
人には定められた運命があるのだとしたら・・ そしてもし、親が子供の運命を少しは感じることができたら、親が子供の運命をシフトさせることはできるのでしょうか?それとも何もできないのでしょうか?
親も子供の運命の一部であるわけですよね。そしてほんの小さなことで、全ての運命の方向を変えることにもなります。蝶がはばたくことで起こった風が、地球の裏側に行った時には大きな台風になる・・バタフライ効果と呼ばれるセオリーですが、ほんの小さなことで世界が変わるということです。
しかし私は今、神が決めた運命の前で、自分の無力さを感じています。
もし、なおこさんの前世を見る力で解明された、息子の前世が本当だったとします。そして、彼は彼の過去何回も生きてきている人生を元に、今の人生に生まれ、彼の今生での使命を果たす準備をしています。
私は今、彼が前世でどのような死に方をしたか、そして、その人の名前まで知ることになりました。これは漠然とした前世のインフォメーションではありません。かなり具体的です。
でも、ここまで知っていても、そしてそれらの過去の点と点をつなげて、今生での息子の使命をおぼろげながらにでも感じることができていても・・(私はなんとなく彼の未来を感じていますが)
息子が息子のやり方で、彼の今生での使命を成し遂げようとするはずです。私にはそのコースは変えられません。
今回、私には「これはこうだ」と確信を持って何かを言える形でこのお話を終わらせることはできません。しかし、このことで読んでくださった方々それそれが、自分の中を見つめ、考える機会となれば良いと思っています。
きっと、私たち一人一人の人生が違うように、また様々な異なった前世を生きてきたように、一人一人が違った理解のされ方をすると思います。
ただ一つ最後に、私自身が今回の経験でこうではないかと感じたことは・・
前世を知ることは、私たちが己を知る探求の旅の始まりであって、それによって、探求の終止符や答えが出るものではないということです。
そして私はこの探求の旅をなんだかんだ言っても
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結構楽しんでいます。
(終わり)